雲伯征伐1日目=月山富田・広瀬編=
GWは出雲路へ。こちらも株主優待消化の一環で、この時期は桐谷さ
ん状態(^_^;)。
岡山まではみずほで、岡山からは初乗車となる陰陽連絡特急やくも
です。
やくもといえば381系、最後の国鉄型車両です。40年くらい前に
くろしおで乗って以来かなぁ。とにかく懐かしい。内装もレトロ
そのものでした。
途中まで高梁川を眺めながら北上。中国山地をトンネルで抜け、鳥取県
に入ると今度は日野川に沿い一路米子へと下ります。右手には名峰大山
も。離合するため運転停車も2,3度しました。伯備線は電化してますが
線のローカル線なんですよね。列車は2時間半程度で安来駅にとう
ちゃこ。駅ではさっそく山中鹿介のイケメンキャラがお出迎えです。
ここからはイエローバス(安来市コミュニティバス)に乗り換え。
バスに乗り30分弱、市立病院前で下車。飯梨川を渡ると右手には
天下の名城月山富田城が現れました。
郭に翻る幟が実にかっこよし!まずは麓の資料館でお城のお勉強
です。
こちらでは城の復元模型があり、ばっちり城のイメージが掴めます。
山中御殿あたりを拡大するとこんな感じ。
月山一帯に多数の郭が築かれていることがわかります。その数は500近
くにのぼるとか。守りは鉄壁で大内義隆、毛利元就、山中鹿介に辛酸を嘗め
させたことに納得です。さて予習を済ませ、いざ登城。登り口はお子守口、
菅谷口、塩谷口とありますが、今回はお子守口の伝塩冶興久墓からスタート
です。
坂を登り始めますと左手には馬乗場郭が見えます。郭内はこんな感じ。
細長い郭でかつては馬場があったのでしょう。さらに登り、尼子神
社を左手に曲がると太鼓壇に接続し、まもなく山中鹿介幸盛祈月
像が現れます。
尼子再興に生涯をかけた忠臣ということで、戦前には教科書にも
その逸話が掲載されたとか。「我に七難八苦を与え給え」の名文句
は今でも有名です。奥書院を通過し、坂を登りきると花の壇につき
ます。
こちらには屋敷が復元されていました。武将の生活の場であったようで、
掘立柱建物跡が発掘されたそうです。なお花の壇という名称はこちら
に花が植えられていたとか。花の壇とその奥の郭は巨大な堀切で切断。
そしてその奥に広がるのが山中御殿です。
先程、3つの登り口があるといいましたが、いずれもこちらに集約さ
れるさう。周囲には石垣も整備され、堀尾時代のものださう。
こちらで標高は81m。資料館から既に55m登っています。
御殿跡の礎石も残り、尼子時代からこちらに当主の生活の場があったようです。
塩谷口の虎口には立派な石垣が築かれていました。
そしてここからいよいよ本丸を目指すことになります。まず攻略せねば
ならぬのが七曲り。一見絶壁を登るようで気が遠くなりさうですが(^_^;)。
しかし、その実態はコンクリの階段が整備されており、実に登りやすい。
まあ、少々味気ない気もしますが・・・。
途中には山吹井戸があります。難攻不落の理由がここに!
坂を登りきれば三の丸下に。三の丸は立派な石垣の上にあります。
三の丸に登れば城下から中海、日本海まで一望。絶景かな絶景かな!
更に進めば二の丸。本丸との間にはまた巨大な堀切があり、二の丸側
には石垣がもかれています。頂上の郭はかなり近世の手が入っている
ようです。
そして最奥の本丸。こちらには尼子氏も崇敬した勝日高守神社が
祀られていました。
本丸で標高190m。麓からは164mの比高となります。城址は道も整
備されていることもあり、現在となっては難攻不落ではなく、ハイキ
ングコースとなっており、歴史ファンならずとも人気にスポットのようで
した。帰りは忘れずに山中御殿下の大土塁も見学。
土塁の裏には空堀も築かれるなど、ほんと守りは鉄壁ですね。
とてつもなく巨大な城ということがよくわかりました。
土塁を抜け、ひたすら山中を下ります。しばらくすると左手に
堀尾吉晴の墓と山中鹿介供養塔がありました。
鹿介供養塔はこの左奥に。吉晴は月山富田から松江に本拠を移しますが、
こちらに葬ってくれと遺言し、墓がこの場所に建てられたようです。
巌倉寺を通過し、最後は千畳平を見学し無事下城しました。約1時間45分の
行程でした。
広瀬松平氏の菩提寺城安寺をお参りし、山中鹿介屋敷跡も見学。こちらは
石碑があるだけでちと残念でしたね。
後半は江戸時代の城下町となった広瀬へ。市立病院のある一帯がそうです。
町は大正時代の大火で焼亡したようですが、それでも雰囲気のある街並み
が残ります。
山陰独特の赤瓦が美しい街並み。
町の最深部には陣屋跡があります。
広瀬藩は松江藩の支藩で初代松平直政の子近栄が寛文6(1666)年に立藩。
広瀬は3万石の陣屋町として栄えました。近世になってもこの地はそれだけ重
要やったということですね。
近くの洞光寺には尼子氏の名を全国に轟かせた梟雄経久の墓も。左が経久で、右は
父清貞の墓です。
他にも経久像や晴久墓なども見たかったのですが、残念ながらここで
時間切れです。
再びイエローバスに乗り、宿のある米子に戻りました。
コミュニティバスなのに県境を越え、さらに1時間近く乗っても200円
というのがすごかった(^^)!
米子駅近くのビジネスホテルにチェックインし、ディナーは近くの当たり
前田カレーで大山どりチキンカツカレー。美味しかった!
そんなこんなで盛りだくさんの1日目終了です。
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